について
時は西暦1832年、和暦にして天保3年。
後に幕末の志士となる者達が次々と産声を上げるころ、
岩手三陸の宿場町、岩泉町で
志たあめやは誕生しました。
創業
そもそもの昔は農家を営んでいたのではないかと考えられる当家ですが、1832年、和歴にして江戸時代の天保3年に飴を作り、販売を始めました。
下宿(しもじゅく)という今も店のあるこの場所で飴屋を始めたので
「下飴屋」というわけです。
その頃は敷地内や少し離れたところに畑を持ち、自分たちで大麦を育て、その麦芽で水飴を作るという全工程を行っていました。
それからしばらくし、飴以外のお菓子も作るようになり、それら江戸の頃から食べられていた庶民のお菓子を「駄菓子」といい、
今でも製造販売しています。
確立
創業当初は工場だけを設備し販売していましたが、
明治の一桁台に店舗を構えました。
その後都会のお菓子や舶来のお菓子が岩泉にも
伝わりますが、田舎の山間の町ではそれらの
取り扱いが専門店として細分化されることはなく、
和洋今昔の甘味全般の取り扱いは
「お菓子屋」が製造販売するというあり方が
文化となり、現在にも続いています。
今は「駄菓子」「和菓子」「洋菓子」「パン」「ケーキ」を
取り扱っています。
動乱 土俵際
長い歴史を有すると、歴史の大きな転換期に直面する事に
なります。
明治維新、大正デモクラシー、世界大戦、
高度経済成長、バブル、IT…
とりわけ第二次世界大戦の影響は様々大きくありましたが、
ここは岩手の山奥、歴史の大きなうねりもありますがむしろ、
菓子の珍重さ加減、近くに位置する観光地「龍泉洞」の浮沈、
過疎化に伴う人口の減少などに、大きく店の状況が
左右されました。
戦後、店が立ちいかなくてどん底に落ちていた頃、
龍泉洞への観光客がピークを迎えるとともに町の人口が増加し、観光向け、町民向けに支えられ、ある程度盛り返しました。
温故知新
不易流行
大変な時期をなんとか乗り切ってきましたが、
現代では日本中の地域が存続の危機を迎えているという状況で、
志たあめやのある岩泉も急速に人口が減っています。
当店としては、地域の各店が元気になり、それぞれが
町外からもお客様に来てもらえる店になることが地域の為、
自分たちの為になると考えて頑張っています。
歴史から学び、活かし、持ち味を大切にし、
そして新しい感性も上手に織り交ぜる。
そうやってお店を好きになっていただく事が
当店のあるべき歩み方と考えています。
難しい事がとても多く大変ですが、皆さんに
喜んでいただけるように頑張ります!
岩手県の岩泉町とは
志たあめやのある岩泉町は、
「町」としては本州で一番広く、
その90%以上が森林です。
石灰岩地帯が多いため
洞窟が複数あり、
それら自然のおかげで
水がきれいでおいしい町です。
岩手県の県庁所在地である
盛岡市の東側に
隣接しています。
ミネラル豊富な清流「龍泉洞」
岩泉町といえば
国の天然記念物「龍泉洞」。
地域に広がる石灰岩地帯の山々が
時間をかけてろ過した恵みの雨が、
洞窟を作り、深い深い
地底湖をいくつも作りました。
その全容はいまだ謎も多く、
地底湖の透明度は
世界トップクラスを誇ります。
近隣の水道はこの水である為、
志たあめやの商品に使用する水も
龍泉洞の水という事になります。
岩泉の中心地を見守る「宇霊羅山」
志たあめやのある町の中心地を
すぐ近くから見下ろす宇霊羅山は
「ウレイラ」と読む石灰岩の山です。
アイヌの言葉で、
「霧のかかる峰」という意味の
町のシンボルの胎内には、
龍泉洞が佇みます。
山々が水を濾し、
洞窟が水を湛え、
人々の暮らしを支えています。
志たあめやのある商店街の名は
「うれいら商店街」
といいます。
当店では、電話やメール等、
直接ご連絡頂いての
ご注文も承っています
是非お気軽におためしください
※ 輸送環境に対応できない商品など一部発送できかねる商品もございます